7's Essay

独り言だけど誰かに読まれたい散文と短歌。

コーヒーの冷める速度に合わせたらあっという間に死ぬんだろう

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一月の薄曇りの日曜日。金曜日に降った雪が残ったまま、明日からまた雪予報。そんな日に、沸騰したお湯で淹れたコーヒーが、飲もうとしたら冷めていた。そんなふうに、「わたしがわるい」「わたしが生きていてはいけない」と思っていることが病気の一部だと、目が覚めるように気づいた日があった。もういつのことかは覚えていないし、まだこの症状に陥ることもあって、あぁそうだコレは病気だ、と認識しても、だからといってしんどいのがなくなるわけでもなかったし、それどころではないぐらい一気に追い詰められると、気づいたら血まみれの日がある。耐えられない。耐えられなくて腕を切る。何に耐えられないかといえば、きっと自分が生きていることを容認することなのではないかと最近思った。容認しない=腕を切る→自分を損ねることで、少なくとも自分は自分を容認していないという証のようなものを残している気がしないでもない。実際はわからない。腕を切ったからといって、しんどさがなくなるわけでもない。ただ、そうすることで、やっぱり冷める。しんどさのゲージがぎゅーんって爆上がりしたのを、腕を切ることで爆発させて覚ますみたいな。

 

タイトルを含めて上記まで、先週の日曜日に書き残していた。自分で書いたことだから読み返せば納得するし、コーヒーがすごい勢いで冷めたことは覚えている。まぁ、それよりはゆったりかもしれないけれど、残さないものはどんどんこぼれ落ちていく、冷めていく。でもそれが悪いことなのかって問われるとよくわからない。残すことの意義。忘れていくことはいけないことか。

 

さびしさは失うことで失ったことすら忘れ日々を生きる

 

目の前の食事や洗濯やお風呂とかに比べると、今生きるために必要ではないことを、不要だと切り捨てたくはないけれど、それはそれだけの余裕が必要だと思う。余裕がなくても書くのはなぜかというと、書かないと書き方を忘れてしまう。いや、書き方は忘れないけれど、なんか、大事なものが、それこそ「失ったことすら忘れ」である。

 

小説を書けば書くほどこれでいいのか?と自分に問い合わせがくる。情景を描写して絵を立ち上がらせることではなく、文章だからこそ出来る表現で書くのが小説だろうみたいな変な沼ずぶずぶしている。ずぶずぶはしているけれど、それはそれとして、今やりきってみたいとも思うから、ずぶずぶに呑まれている。一緒に本をつくっているひとに迷惑をかけてしまっているのが心苦しいしもう二度と一緒に本作ってくれないかもは覚悟している。それでも今つくっている本は絶対出す。二度となくても出す。

その後は寄稿するエッセイ、長い小説の校正校閲組版、それからアンソロの第3段スタートと、3月までの予定が結構ギリギリ。だからその後はしばらく作品を読みたい。インプットが必要とかじゃなくて、単純に本とか作品とか吸収しないと生きているのがつらい。でも何かしら作らないとそれはそれで生きているのがつらい。面倒くさいなーこれ、と思う。

結婚して、子どもが生まれて、仕事もして、それだけでもう手一杯なのに、それ以上を今自分の中に入れるキャパはないと思うのに、キャパ以上のなにかで小説を書いて、作品を取り込んで。どうしてそこまでするのかわからないまま、でもどうせ満足できずに死ぬのなら、自分の要求を叶えられるだけ叶えてやりたいと思う。