7's Essay

独り言だけど誰かに読まれたい散文と短歌。

死にたいと泣き続けている母がいて子どもにできることなどなくて

「死にたい」がひとつのトリガーみたいで、中学〜高校生の頃、うつ病だった母のことを思い出して、死にたいと拳を打ちつけている姿を思い出して、何もできなかったことを思い出して、耐えられずに学校で教師に話したらただ耐えろ的なことを言われて、八方塞がりだった当時が蘇ってきてしまった。もう死ぬしかないなって思ったから進学しなかったんだけどうっかり生き残ってこんなところにいてしまっている。しんどいね。

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こういう時面倒臭いなと思うのは、自分が過去の出来事を思い出して涙が止まらなくなったとき、わざとそれを思い返しているのではないかという意味のわからない自分への疑いがかかることである。そもそもそんな疑いを抱くところがおかしい、と冷静になれば思えるんだけど、渦中にあると感情が釣り竿にかかってて無理なんだなって。

ということで今日はもう調子が悪い(断言)。

 

あの頃のわたしに母が死にたかった理由を全部話してもらえば良かったの? 解決もできないのに?

該当ツイートはSNSを通して知り合ったよく知らないひとを前提としていることはわかっているけど、あのツイートが飛び込んできた途端そういうふうに過去の自分が受け止めちゃったからもうそれはどうにもならない。ついでに言うと他人の死にたいを止めようとするならそれなりの覚悟が必要だと思っている。極端な話、あたり事故みたいなものだから、当たった時点で助けられなかった罪悪感か、他人の死にたいほどの気持ちに介入する覚悟かが求められるんだと思う。そんな愚痴でした。

 

昨日はあまり眠れず。というよりは眠っちゃうと正気に戻るからあまり眠りたくないという感じ。すべてがクリアになるとしんどそうな気がする。ぼやぼやしているうちにまたどこかに適当に仕舞い込んでください。

 

しんどい。明確にこれがダメなんだろうっていうのがあるわけじゃないから余計にしんどいのだろう。こういう日は諦めて寝るのがいいと思うんだけど、そういうわけにもいかないのでのらりくらりとやり過ごすしかないんだろうな。のらくらのらくら。

 

しいたけさんの下半期占いを見て少しだけ持ち直した。持ち直したというか、明日も明後日も死なないで生きている絶望感と、死なないでいるから未来があるってことですみたいな。

つくることやめてみようか 始まらない年の始めに吹き飛ばされた

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書き残したいことをPCのメモに打ち込みまくっていたら右手の皮膚のほとんどが擦り切れたり割れたり裂けて出血したりで老化すごいなどと思っています。いや、ケアをしなさすぎなんでしょうけど。

それはどうでもよくて、ふと、つくることをやめることが頭をよぎって、自分でもそのことにびっくりして、びっくりしただけで去っていったことにちょっと途方に暮れたような感じ。

つくることって、小学二年生ぐらいから生活の一部になって、それをやめたくなったときもありつつ手放さないでここまできてしまったということに、立ち止まれば思い到るけど。立ち止まらなければ次は何をつくろうかで続いていくだけ。でもそうやって死ぬまで続けてもいいのかもしれない。あれが終わらなかった、これが終わらなかったと無念を抱えて死ぬのもわたしらしい気がする。わたしらしさなど知らないけれど、これはわたしらしい気がする。本気の無念と半分マヌケな感じと、死ぬまでやりたいことがなくならなかったら、それはそれでしあわせなことだと思うから。

 

 

明日には明日の風が吹くことを知らないひととコーヒーを飲む

 

 

切り捨てるものを決めたらもう少しラクに生きれて後悔しそう

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いや、楽に生きようよ。って思わず突っ込みたくなりながら。

 

 

サンタさんプレゼントしてくれません わたしだけ入れる精神と時の部屋

 

肉体は老いていくけど心はきっとあのときのまま青空に泣く

 

 

あっちにもこっちにも不義理が続いてつらいけど、つらいことに慣れてしまったというか飽きてしまったというか。

 

タスクの整理が追いつかなくて、いま、すぐ出す!みたいなものからしか出せてないこの感じが一番まずいけど、やることがたくさんあるのは安心する。これが日常だねって。たださすがにそれではまずいのでなんとかしたい。全部やり切りたいんだけど、今の状況だと無理だよねって。

もうちゃんとはしてなくていいから、自分が納得できる範囲でなんとかしよう。

 

一番わたしが敬愛している人と、ものすごく久しぶりに一緒にお仕事ができるのでがんばりたいし、やっぱり好きな人(人柄も仕事も)と仕事ができるのは本当にとってもすごくテンション上がるなって思った。毎日電話できるし!← 信頼していただけているのだから、信頼をお返ししたい。仕事以外もそうだよねって改めて思って、2か月ぐらい抱えている原稿書かないとなって思いました……。

 

 

図書館のカードをつくる また本を愛おしむ地へ帰れるだろうか

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昨日、次女が幼稚園の図書館指導で借りてきた本を返してきた。幼稚園から図書館までは歩いて15分ぐらいだろうか。そこで司書さんに絵本を読んでもらい、好きな本を借りてくるということを月に一回ぐらい行っている。交通安全指導も兼ねている。

わたしは保育園児だったので昔の幼稚園を知らないけれど、こんな小さな頃から図書館へ行き、本を借りることができるという知識や社会経験を積めるなんてすごいことだと思う。

ただし、借りるのは幼稚園の保育の時間だが、返してくるのは保護者側の指導となる。富山市は通常2週間借りれるが、今回3週間も借りていた。どこかで返しに行かなければと思いながらずるずると引き伸ばしていた。

幼稚園のPTAの会計の仕事で近場の銀行に用があったのでようやく返しに行ったのだ(会計の方も対応が遅れていて今日行かないとさすがにヤバい!という状況でようやく行った)。さらにそのついでで、自分の図書館のカードをつくりたい旨申し出た(子どもたちの図書館のカードは幼稚園入園時に園の方でつくっていただいた)。

 

図書館指導は長女が幼稚園入園時から始まっていた(はず)。間に新型コロナウイルス感染拡大の影響で休止になったこともあったかもしれないが、とにかく3年ぐらい前から子どもたちの本の貸し借りで足を運んでいたのにも関わらず、ようやく新たなる一歩を踏み出した。

 

子どもたちのカードで十分というのはあったけれど、どこかで自分のカードをつくりたい気持ちもあって、でもどうにも踏ん切りがつかなかくて、子どもたちが小学校と幼稚園に行っている時間、一人で訪れて、ようやくつくりたい気持ちになったのか、つくりたかったけれどタイミングが掴めなかったのか、自分でもよくわからない。わからないけれど、ようやく図書館に帰ってきたという気持ちがあった。ずっとずっと長い長い遠回りをしてようやく、と。

 

わたしの中でいちばん図書館が身近だったのは十八〜二十歳ぐらいまでの間。運転免許を取得して、自分で運転して車で図書館まで行っていた。その頃はシャトレーゼでバイトをするだけの生活をしていたので時間に余裕があった。図書館で本を探してふらふらするのがとても楽しかった。たくさん本があって、そのどれでも読むことができる贅沢に、すっかり図書館の虜になっていた。

 

あの頃に戻りたいとは思わないけれど、図書館が好きだった。楽しい思い出として残っている。今、ようやくもう一度図書館へ通う生活をしたいと思い、そのための一歩として貸し出しカードをつくった、ということだと思う。

とりあえず1冊を2週間借りるところから続けていきたい。

 

あの頃のわたしは本も図書館も大好きだったけれど、逆にいうとそれしかなかった。それ以外のいろんなことを切り捨てていた。面倒な拗れ方をしていたと今なら思う。当時のわたしは自分は消えるべきで、だからもうどこにも所属してはいけないし、何かを楽しむことも喜ぶことも出来るだけ避けなくてはいけないと本気で思っていたように思うし、楽しんだらその分罪悪感を覚えていて、なんか、本当に面倒くさかったなと、今書いていて思う。でも、面倒くさかったなと思う根底にあるのは、そうであった自分とようやく目を合わせられるようになったからな気がする。

 

日没が世界を覆う 誰にも言えないどこにも行けない記憶を思う

 

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我が家の庭に猫がいた ねこだねこねこのらねこかなと子どもたち

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正確には我が家の庭から少しはみ出た空き地の、我が家がまいた砕かれた瓦の上でくるっとなって日向ぼっこをしていた。

それを家の窓から見つけて、あっという間に外へ出て行った。でも少しだけおおきくなったので、近づけば猫が逃げることも覚えていて、遠巻きにして眺めていた。小学生の長女が少し近づいたところで起き上がってゆっくりと歩いて行ってしまった。

猫がいた、ただそれだけだが子どもたちにとってはすごい大事件なのだ、となんだか嬉しかった。

わたしは、昔一緒に暮らしていた猫が死んでしまってから(あるいは死なせてしまってから)、どうにも猫が苦手だし、猫というだけで癒しになると思っている現状の傾向も苦手だけれど、子どもたちの猫大好き!はすごいなぁと感心してしまった。そこに命の責任があることまではわからないだろうけれど、あるいはわからないからこそ、大好き!という気持ちだけで動けるのかもしれない。

 

(写真は太陽にあてると髪の色が変わるハッピーセットのリカちゃん人形)

あきだよと落ち葉を拾う子どもたち赤に黄色に緑もあって

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今週末はあきをみつけるという小学生の宿題があった。昨朝時点で昨日も今日も雨予報だったので、昨日は100均に寄ったりスーパーに行ったりした。

 

100均ではハロウィングッズに目がいった。ハロウィンも秋のひとつではあるが「ちがう、そうじゃない」感が拭えなかったのであきらめた。来週末の療育でのハロウィンのコスプレに備えて(?)魔女の帽子を2つ購入。値段相応のすぐ壊れそうな脆さであるが、子どもたちが喜んだので良しとする。

スーパーではほとんどの食材がほぼ一年中買える。旬の食材はあるけれど、年中食べられるものに秋を感じるのは難しい。鮮魚コーナーは寄らなかったのでそこはちょっと卑怯だったかもしれないが、予算の都合カニや刺身を食べたいと言われるとキツかったのだ、許されろ。

そして本日、昨日の予報は変わり、お昼まで天気が良かった。ので、久しぶりに大きい公園へ。中途半端な紅葉、秋の途中、そんな感じで、でもそれはそれでよかった。変わりゆく過程のうつくしさ。

 

帰宅後、紅葉なのか楓なのか調べたけれどよく分からず、長女は(わたしが)調べた検索結果からこれはオオモミジだと言ってオオモミジと書いていたが正しいかどうかは不明である。

 

宿題の完成度はともかくとして、子どもの宿題を一緒に考えるのは楽しかった。

公園にはキノコが生えていて、でも何のキノコか調べられず、長女が毒キノコかも!触っちゃった!と言って何度も手を洗った。

真っ赤に紅葉した葉と、赤くて小さな細長い実が成る木があった。看板にハナミズキとあってびっくりした。秋のハナミズキを見たのは初めてだった。

他にもなんだかわからない植物や木の模様、コケ、枯葉など、自然の不思議やうつくしさを堪能して、すごく贅沢な一日だった。

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おかげで何もかも進んでなくて今ピンチなのでこれからがんばります。