7's Essay

独り言だけど誰かに読まれたい散文と短歌。

太陽の光を浴びて浄化する スマホを空に投げ捨てようか

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自身への強い否定と子どもたちに悪いことをしているという意見に脳がバグり始めている感じ。

 

あれ、やっぱりダメだったんじゃない。死ぬべきだったんじゃない。今からでも遅くない遅くない。せめて罰せねばならないみたいな?

 

ここまでくると日常生活に支障が出る。

いつも無意識に出来ていたことができなくなる。ものすごく時間がかかる。

というか寝たい。何も考えたくない。

 

これがつまり鬱←

ちょっと外に出てお日様浴びてきたけど改善しないわー。

 

 

中心に穴が空いたよう手と足をどう動かしていたのか忘れ

 

自分ってなんだったかな 遠くなる このまま空気にとけていけそう

 

 

 

しんどいつらいくるしいたえられないそんな全部を踏みつけてきた

 

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自分の邪魔になる感情を踏みつけてきた代償として時々脳がバグるのがうつ病なんでしょうか。

三連休に小説読んで、みたいなタグが三連休暇でしょみたいな感じに取れるのかものすごく気にさわるのでもうこれ脳がダメ。

小説をオンラインではほぼ読まないのでその辺もあっていいあらわしようのない感情。言葉で文字でひとの感情をあらわすのも傲慢かもしれんと思い始めてるので脳が(以下同)

 

心の病よりは脳がおかしいっていう方が自然な気がする。脳みそ、見たことはないけど頭に詰まってるのは知識としてある。そういう確かさ。

 

たこの罪の話を読んで、「どうすればよかったのかわからない」はずっとずっとあってそれが今また来ていて大人になってもどうすればいいかわからない。

 

戦争が起きてたくさんの人が死んでいる。戦争は良くないけれど、なぜ戦争が起きたのかの背景も知らずに戦争をやめろと言っていいのか。だからといって突然生活を、命を奪われることが正しいわけがない。

反戦の意思を示しているひとが、そうしないひとを責めているのもホントしんどいのでフォロー切った方がいいなって今思った←

だいたい世の中の出来事で判断がつかなかったら自分にそれが降りかかることを想像するんだけど、私一人ならもう戦争で死んでもいいんだけど、子どもたちには起きて欲しくないなと思う。思うけど回避する手段もなさそうで、どうすればいいかわからない。

 

昔も今も無力であることに打ちのめされて生きている。でも、無力である子どもたちに無力であることを嘆いて欲しくないと思うなら、無力であることを受け入れるしかないのかな。

傷つけた自分の皮膚から血がこぼれ服が汚れてかなしいかなしい

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生理前かなと思いつつも、仕事が終わらないなかなんとか時間を割いて作った料理を「こんなもの」とか乱暴に言われて脳がバグりました。

 

そして次女がストーブでおしりを火傷。

明後日幼稚園の誕生会なのに……。

 

生きるのを辞めたいような夜だって星はきらきら輝いている

 

つらいくるしいかなしいの果てがない海でしぬ覚悟はあるよ

 

ひとまず寝たいんですけど仕事が終わってないんです。今日夕方までだったのに!(今日いっぱい、つまり明朝まで延ばしてもらったんですけど)。

 

次女をめちゃくちゃ混むけど近い皮膚科と遠いけどスピーディーな小児科のどっちに連れて行くかも悩んでいる……。

コーヒーの冷める速度に合わせたらあっという間に死ぬんだろう

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一月の薄曇りの日曜日。金曜日に降った雪が残ったまま、明日からまた雪予報。そんな日に、沸騰したお湯で淹れたコーヒーが、飲もうとしたら冷めていた。そんなふうに、「わたしがわるい」「わたしが生きていてはいけない」と思っていることが病気の一部だと、目が覚めるように気づいた日があった。もういつのことかは覚えていないし、まだこの症状に陥ることもあって、あぁそうだコレは病気だ、と認識しても、だからといってしんどいのがなくなるわけでもなかったし、それどころではないぐらい一気に追い詰められると、気づいたら血まみれの日がある。耐えられない。耐えられなくて腕を切る。何に耐えられないかといえば、きっと自分が生きていることを容認することなのではないかと最近思った。容認しない=腕を切る→自分を損ねることで、少なくとも自分は自分を容認していないという証のようなものを残している気がしないでもない。実際はわからない。腕を切ったからといって、しんどさがなくなるわけでもない。ただ、そうすることで、やっぱり冷める。しんどさのゲージがぎゅーんって爆上がりしたのを、腕を切ることで爆発させて覚ますみたいな。

 

タイトルを含めて上記まで、先週の日曜日に書き残していた。自分で書いたことだから読み返せば納得するし、コーヒーがすごい勢いで冷めたことは覚えている。まぁ、それよりはゆったりかもしれないけれど、残さないものはどんどんこぼれ落ちていく、冷めていく。でもそれが悪いことなのかって問われるとよくわからない。残すことの意義。忘れていくことはいけないことか。

 

さびしさは失うことで失ったことすら忘れ日々を生きる

 

目の前の食事や洗濯やお風呂とかに比べると、今生きるために必要ではないことを、不要だと切り捨てたくはないけれど、それはそれだけの余裕が必要だと思う。余裕がなくても書くのはなぜかというと、書かないと書き方を忘れてしまう。いや、書き方は忘れないけれど、なんか、大事なものが、それこそ「失ったことすら忘れ」である。

 

小説を書けば書くほどこれでいいのか?と自分に問い合わせがくる。情景を描写して絵を立ち上がらせることではなく、文章だからこそ出来る表現で書くのが小説だろうみたいな変な沼ずぶずぶしている。ずぶずぶはしているけれど、それはそれとして、今やりきってみたいとも思うから、ずぶずぶに呑まれている。一緒に本をつくっているひとに迷惑をかけてしまっているのが心苦しいしもう二度と一緒に本作ってくれないかもは覚悟している。それでも今つくっている本は絶対出す。二度となくても出す。

その後は寄稿するエッセイ、長い小説の校正校閲組版、それからアンソロの第3段スタートと、3月までの予定が結構ギリギリ。だからその後はしばらく作品を読みたい。インプットが必要とかじゃなくて、単純に本とか作品とか吸収しないと生きているのがつらい。でも何かしら作らないとそれはそれで生きているのがつらい。面倒くさいなーこれ、と思う。

結婚して、子どもが生まれて、仕事もして、それだけでもう手一杯なのに、それ以上を今自分の中に入れるキャパはないと思うのに、キャパ以上のなにかで小説を書いて、作品を取り込んで。どうしてそこまでするのかわからないまま、でもどうせ満足できずに死ぬのなら、自分の要求を叶えられるだけ叶えてやりたいと思う。

ちゃんとする、ができなくなった。ちゃんとしてなくても息はできると知った

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ひとりごとの置き場所として大分前につくったのに、そのまま放置していたのを発掘してきた。

2022年。新しい年、なんて雰囲気はない。

喪中をいいことに新年のいろいろを何もしていないせいもある。雑煮をつくったのと餅を買ってきたのとついったの企画・創作TALKを今年も開催したぐらい(記事での参加はしていない)。

していないことはたくさんあるけれど、大きいのは今年は日記帳を購入しなかったこと。昨年は忙しすぎて、日記を書く気が途中で潰えた。この忙しさの説明をするために平日のタイムスケジュールの一例を書き出してみた。

 

●6:30〜7:00

子ども起床(だいたい一瞬だけ起きて再度沈む) 

 

●7:30〜9:00

起床、子どもたちの朝ごはん準備、洗濯機を回す、子どもたちの幼稚園の支度、幼稚園へ車で送っていく(5分)

 

●9:00〜9:30

帰宅。洗濯物を干す、仕事スタート。

 

●10:00〜14:00

仕事。余裕があればお昼を食べながら仕事。

 

●14:00〜14:30

大体14時5分とかに家を出る。最近は30分ぐらいで家に戻れることが多いが、幼稚園の園庭で遊んだりマクドナルド食べたいとかなると戻るのが15時頃に。

 

●14:30〜15:00

帰宅。子どもにおやつを出す。

 

●15:00〜18:00

仕事。間にいろいろ起きる。

 

●18:00〜21:30

夕飯準備、夕飯、風呂、寝かしつけ、間に仕事。仕事の状況によっては夫にご飯を買ってきてくれと連絡したり、冷凍ご飯を出したり。状況によっては幼稚園のPTAのLINEが揉めてたり。

 

●22:00〜

起きる。終わっていない仕事を片付けようと思うがだいたいついったを眺めたりしているがそれでもTODOリストぐらいは書き出してなにをどうやってもおわんねぇやという事実に直面。とりあえずやりたいことから手をつける。やりたいことじゃないとなにも手をつけられずに終わる。そういうときがある。そして遅くても1時ぐらいには意識がしぬ。この前2時半までがんばれたけどあれは奇跡。次女がうなって見にいったらそのまま寝た。

 

はい、ここに手帳とか入れるの無理! 書き出すとか無理!! 手帳の無駄使い!!! そんな暇があるなら小説を書こう! 絵を描こう! 短歌を詠もう! 本を読もう! という意見が具体的に出たわけではないけれど無意識領域で無理の一択。

ということで今年は手帳を用意しなかった。一覧性のあるものはほしいので自作しようと思ってそれどころではない。本当に毎日がそれどころではない。仕事が忙しすぎるのが一番問題なのだがこれからのことを考えるとお金がないと困る。だがお金を得れば得るほど税金も増えてつらい。八方塞がり。つまりすべてをちゃんとすることはできない。現状の生活では無理。

 

子どもが一番大事だ。大事にしなくてはいけない、ではなく、明らかにわたしの中でこども二人が一番大事で大切だ。そして子どもたちはわたしを真っ当な人間に近づけてくれる。

この子たちが死にたいと思わないような人生を歩んでばあちゃんになって死んでくれたらと願っている。

自分以外のことは最終的に願うしかないということがわかってきた。もうすぐ40歳だから。

40という年齢への実感が薄かったのが、体のあちこちがうまく動かなくなってきたことで老化を意識した。若くない、ということは死により近いということ。でも精神が老いたかというとそんな感じはない。成長を感じない。肉体が老いないとあまり意識しない気すらした。老いてきたことを意識するということは、母親という位置付けになったときよりもずっと周囲の目を意識した方がいいんだろうなぁと思いつつ、それどころではないので今まで通りだと無意識に放り投げた。ただ運動はしないとダメだと感じたのでする。それだけでいい。女であることも若いことも意識したことがあまりない。ならこれからもそうでいい気がした。

 

誰かに助けて欲しいと願っていた子どもは、誰にも助けてもらえなかった。だから、誰かが助けてといったときは助けにいけるようでありたい。

そんな自分であれるのは、わたしの家族ではなかったひとたち、今家族であってくれるひとたちとの出逢いである。

 

どうなるかわからない世の中だけれど、昔の私のように、いつ死のうかどう死のうか考えていないだけ大分マシなので、忙しいなりになんとか生きていく。

ちゃんとできなくても、誰にも助けてもらえなくても、わたしはちゃんと生き延びた。

集中が切れているから存在が拡散するのか眠らせてくれ

子どもが生まれてからしんどいと感じるのは、子どもがいるからしんどいのではない気がする。わたしは元々ひとりでなくてもひとりになれる人間なので、むしろ子どもたちのほうがおかあさんが時々反応がないことがあって困っていることがあるのではないかという気がする。過集中、らしい。本当に、冗談抜きで集中している物事以外が入ってこないのだ。だから、しんどいと感じているときは、どちらかというと過集中しすぎて集中力が完全に切れているときなのではないかと思う。ちなみに過集中が切れると眠ることもあまりできない。とにかく意識全体が拡散しつづける。おそらく自分を保つことが難しいのではないかと思う。自分というものはある程度自分が集中することで成り立っている、のかもしれないと思った。

血があふる女のからだは面倒でそろそろやめてひとになりたい

 

性別を捨てたいと思うときがある。子どもは産んだ。もうこれ以上産む予定はない。だがわたしが女の肉体を持っている限り月に一度は血が流れ精神的にも肉体的にもダメージを受ける。面倒くさい。もう本当にこれに尽きる。男になりたいとは思わないが女であることを終わらせたい、終了したい。

 

青空よ死にたいわけじゃないけれど生きていることが耐え難いのだ

 

同じじゃないけど似ている気がする。現状が嫌だ。嫌だけど現状が普通で、何もしなければそのまま時間が流れていく。いつか生きていることも女であることもなくなる。そのいつかをただただただただ待っている。

 

面倒くさい。