7's Essay

独り言だけど誰かに読まれたい散文と短歌。

キラキラのお城みたいな本屋さん夜九時までの魔法のように

 

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久しぶりに夜に本屋さんに行ったらすべてが輝いて見えてしまった。子どもたちと出かけるときのいろんな制限がなく、一人で自由に行動できること、好きなものを好きなだけ見れること。それは幸せなことである。子どもたちとのお出かけも、それはそれで幸せだけど。

 

専門の時の同級生が関わっている漫画の9巻が出ていたので購入。

時期的に来年の手帳が出ていたのでいろいろ見て、やっぱりもう市販のは使えないと思った。自分なりのこうしたいが多すぎる。少しずつ自分でつくりたいページを自作していこうと気持ちを新たにする(いつ作り出せるかはわからない)

家や暮らし、収納の本も見る。ここにあるもの全部読み尽くしたいと思った。自分の知らない知識が溢れていると思うと本当にたまらない気持ちになる。リフォームのことも書き残しておきたい気持ちになる。書き残すことの意味はただひとつ、忘れたくないから。人間は忘れる生き物だけれど、残すこともできる生き物で、わたしは残したがりで、失うのが怖いのだと思う。失えることを知っているし、捨てられることも知っているから。

小説すばるを立ち読みした。フォロワーさんの作品だけ。どちらも良かった。できれば購入したかったがそんなお金の余裕と選択ができなくてすまない。小説すばる、絶対隅から隅まで読めない。

最近自作を購入くださった方に少しでも楽しんでいただけたらというのをやめた。全部楽しんでもらわないと、金額的には損だと気付いた。だから全部まるっと楽しめる作品を出すようにしないとと思っている。

 

企画の準備と原稿と仕事が詰まっているので頑張りたい。頑張りたいというのは全部満足するかたちで終わらせたいということで、締切を破っている原稿はクオリティの高いものを少しでも速く出すしかない。

 

何もかもうまくいかなくても生きていくという決意を子どもがいるがためにすることになり、でもいつか死ぬために生きていることも知っている。いつか死ぬのだからそれがちょっと伸びたって許されなくても別にいい。

書き残す過去を残して振り返るそんな未来がときどき現実

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考えていかないといけないことがたくさんあって、メモ帳の箇条書きではすでに追いつかない。

立ち止まりたい。立ち止まって状況を整理して戦略(?)を練りたいと思うのに立ち止まるとそのまま力尽きてしまう日々。

目の前の出来事としては子どもたちの服を秋冬仕様にして着れなくなった服を捨てるなりなんなりして、必要な衣料品を確認して購入すること、なんですけど風邪がひどい。うっかり長女が学校を休んだ日にマスクなしで接触してしまったのが悔やまれる……!

 

仕事も月末までの案件(といいつつ1年はそこからいろいろやっていく感じ)、月末からスタートする案件の作業分担、予算を決めないといけない案件で結構脳内が忙しい。余裕があるからと放置しているのもそろそろやらないとまずいはず。

 

創作はだんだんめちゃくちゃになってきてて申し訳ない感じですが今夜がんばります。書くことは大体決まっているので、書くだけなんですけど資料もちゃんとひっくり返さないと。

ふらぺらさんとブクハンさんは新刊無理かな〜と思いながら11月だからもうちょっと粘ります。ねばねば。

 

子ども関連のイベントも来週末から増えてくるのでとにかく風邪を治さないとしんでしまう←

家のリフォームをしたくて予算と間取りで脳みそも抱えている(?)

お金の問題もあって創作活動を控えるか、むしろそっちでお金を入れてもらえる仕組みをつくるかしないとにっちもさっちもいかなさそうという← ただまぁいろいろ難しいよねって。

 

わたし一人ならのたれ死んでもまぁ別に、だったんですけど(本当に残金0になりかけた)、今はそういうわけにもいかないので考えていかないとなって思いながら洗濯と朝ごはんとちょっとお昼ご飯買いに行ってちょっと子どもたちと遊んで夕飯作ったら半分はもう寝ていることしかできない体たらく。

体力!っていうのも課題です。

 

 

右見ても左を見ても絶望が息をしていて困ってしまう

おいしいがわからなくなる食べるのは子の残した食べ物ばかり

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小学一年生と幼稚園年長児、大分食べてくれるようにはなってきている。

子どもたちは何も悪くない。

わたしには悪いところがたくさんある。例えば18時きっかりに仕事を切れなくて夕ご飯が遅くなるとか。

でもそれはそれ、これはこれ。

割り切って捨てることもあるけれど、食べられるものを捨てるのもしんどい。

 

おいしいものが食べたい。

何を食べてもおいしくない。

おいしかったものが気持ち悪く感じる。

 

氷に麦茶かコーヒーと牛乳を注いで噛み砕いているときが一番おいしいのでそれだけ食べていたいと思っていたところ、仕事のメール返信案を考えながら氷を噛み砕いていたら、今年ようやく治った去年の虫歯の詰め物が欠けてしまった。

氷は食べ物じゃなくて凶器だった。

そういえば口の中もよく切る。

でも氷を噛み砕いてる時はホント脳から快感!って感じの信号を受け取る。とにかくすごくおいしいって感じる。

 

それはともかく、ここまでを昨日書いて寝落ちました←

昨日の夕飯は仕事でつくったレシピ本からハヤシライスの豚肉簡易版。幼稚園児は食べないので(一応食べるかは訊いたけど)、最初から自分の分が確保され、珍しくあたたかい温度のうちに食べられて、おいしかった。皿を使うのが面倒で中身の残った鍋に白米適当に入れて食べたけどおいしかった。子どもたちや夫は別室で、私はひとり台所で食べたけどおいしかった。おいしいとおなかがちゃんと満腹になる。そのあと子どもの残した長芋を食べ、残した豚肉ひと切れを捨てた。豚もも肉おいしかったのに。

 

子どもを産む前、子どもに食事を食べさせるということがこんなにも大変だとは知らなかった。子どもによるのだとは思うし、親にもよるのだろう。そういう「知らなかった」が子育ては多い。もっと知らせてくれと思う(知らせてくれたら産まなかったじゃなくて)ところもあって育児アンソロを作り始めた気がする。

 

疲れたというとそのままずーっとお布団にまるまってしまいそうなのでがんばりますと言いましょうか。

 

そんな追い詰められているとかではなくただの雑談です。最近雑談的文章を書きたいみたいです。実際に雑談するのはすっごく苦手です。

 

昨日、富山のコロナ感染者の人数が一昨日よりは少しだけ下がっていた。少しといっても300人ぐらい? 前週よりは増えた、と記事には書かれていて、それでも減ったことは良いことでは? それで油断は出来ないけど、どうして悪いところだけ書くの? みたいなことを考えた。そういう指示なんだろうけど。

 

それはそれとして、昨日は小学校の終業式で、つまり通知票がありました。すっかり忘れていたので開いてびっくり← しかも今は通知票って名称じゃなかった。

いろいろあったけれど、学校も勉強も嫌いにならず、お休みも体調が悪かった時だけで毎日早起きして自分の足で学校に通ったのでオールA+++!というのがわたしが長女にあげたい評価?なんですけど、ちゃんと他者からも長女のがんばりが評価されて嬉しかったです。

 

と、良い話(?)で〆ます。

今日は一日雨みたいですが買い物に行きます。来週はお弁当週間です……。

黄昏に焦ることさえなくなってこれが老いるということなのか

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最近、でもないけれどInstagramを始めました(でもアカウントは貼らない)。始めたといっても所謂ほぼ見る専で、自分からは宣伝以外書いていません。それで何を見ているかというと、主に #バレットジャーナル のタグです。

どちらかというと「手帳デコ」というタグがふさわしいだろうなぁとは思うけれど。

わたしは手帳デコよりは本当に予定管理とかをメインに使いたいのでちょっと違うんだよなーと思いつつ、参考になるのもあったり、面白い文房具とかそういう情報収集には良さそうだなぁと思いつつ、なんていうか、すごいキラキラしてるんですよね。

世界が違うっていうか。

一次創作の同人誌とzineって中身は同じだと思ってるんですけど(それぞれからしたら違うのかもしれないけど)、Instagramはzineって呼ぶんだろうなって。

おしゃれで、気が効いてて、どこに出しても恥ずかしくない文化と人みたいな。

どこに出ても恥ずかしくなっちゃって開き直る(?)わたしには向かないんだろうなーと思いつつチラチラ見ています。あと仕事で使うこともあるだろうから基本は抑えておきたい気持ち。

 

と、なんかどうでもいい雑談を書きたくなって書きました。

コロナの情報を探そうとすると、ネット上ではあっても(そこはあるからこそ、なのかもしれませんが)、人と人とのぶつかり合いが多くてしんどいなぁと思います。

この「しんどい」は、意見の違いはあっても、それぞれに本当につらい思いをしているひとたちがいるってこと、それを救うための手段が見えないってこと。

もう誰が悪いとかはどうでもいいので、今からでも一人でも多くの人が救われる未来に進んでほしいです。

同じこと自分の子どもにされたとき許せるか許せないかを考えて

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pixiv社のハラスメントの問題を受け、pixivおよびBOOTHの使用をやめました。

 

Twitterでちゃんとお知らせを書かねばこれまでご利用くださった方に申し訳ないなと思うものの考えをまとめる時間がなく今に至ったのですが、抗議の意志というよりも、使っていたくないという気持ちが強かった故の使用停止です。

 

pixivとBOOTHに未練がなかったとはいえないのですが、それを上回る気持ち悪さというか、そんなところに自作品を置いておくことへの嫌悪感が勝ってしまいました。そういえば一緒に作品をつくった方へのお知らせを失念していたことにたった今気づいたのでそれもしますね……すみません(ここで謝っても意味がない)。

 

自分はやめるけど他のひとの行動は自由ですはそれはまぁ自由ですけど、どうしてもセーブがかかるのは否めない。というぐらい不思議なほど今回の件には嫌悪感を抱いています。

それだけBOOTHとか他の人のファンボックスとか本当に見るの大好きで楽しみにしていたし、大事にしている人たちがいて、それを企業として踏み躙ったことが許せない、ということなのかなーと想像します。つまり根底にあるのは自分勝手な悲しみなのでしょう。

noteには愛着がなかったからさらっと読み専にうつれましたね←

 

かといって、悪いことが起きたから永遠にさようならとしてもダメだとは思います。やり直す機会を与えて、でもそれは簡単に許してもいけない、というところで見守る姿勢は維持したい。

 

この辺のことをもうちょっと体裁よく取り繕えはしないだろうけどまとめて表にも投げないといけない気持ち(別にここはチラ裏でもないのだけれど最近チラ裏化していますね)。

 

それはそれとして新しい通販窓口とDLファイル置き場を探さないといけないのが当面の問題です。

 

【2022.7.22追記】

不思議なことに、自分に子どもが産まれたら、自分の子どもじゃなくても大事にしなきゃなって思うようになった。それは裏返せば、ほかの人にもそうであってほしいということ。年齢は関係なく、みんな誰かの子どもで、みんな大事にされるべきなのだということ。

(なんでこんな自分の子どもだけ良ければいいみたいな短歌詠んだん?って思ったんだけど裏側の気持ちとしてそういう背景があったことを詠んだ本人が忘れていたので備忘録←)

返信を必要とするメッセージ悪意なくとも優しさもない

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しばらく何もなかった、わけではなく。

むしろありすぎて何も書けなかったが正しく。

残すことはエネルギーが要る。

 

とりあえず5月の最終週月曜日、夫が入院となった翌日、夕飯時に義母から5つぐらいメッセージがきた。

夕食を作りながら、在宅仕事をしながら、子どもたちの対応をしながら、20:30には子どもたちを寝かせないといけないし、お父さんが入院したことで不安を覚えているだろう子どもたちにはいつもどおり、あるいはいつも以上にいつも通りをと思っているところで、である。

手伝うことあれば、手術の日子どもたち預かろうか(まだ手術日決まってない)、夫は救急車で運ばれたのか、何号室か、でもコロナで会えないんだよね??などなどが混在していて、この人はこちらのことを本当にはなんにも思いやってくれてないということがわかって、真剣に思いやってくれてない人に真剣に対応する必要はないなとものすごく冷静になった記憶だけがある。

そのあとついったに夫の入院・手術でしばらくいないよ宣言をした時のフォロワーさんたちのやさしさに、リアルだろうとオンラインだろうと真剣に思いやれる人と思いやれない人はいて、それはその人たちがそういう人たちなだけで、リアルとオンラインで隔たれているわけではないということを実感した。

同時に、リアルだろうとオンラインだろうと、目の前にいるのが人であることを忘れたら、自分も人扱いはされなくなるし、自分も人扱いをしてくれない人を人として扱うのはやめようと思った。

最初はもちろん人扱いをするけれど、ダメなものはダメ、無理なものは無理と、どこかで切ること切られることがあるのだと、そんなことを戒めにした。

 

この夫の入院・手術・休職期間中にいろいろ起きて、考えるべきこと、書いておくべきことが追いついていないのだけれど、ゆるゆるがんばります。

めぇめぇと羊の真似をしてみれば泣いているのだ悲しみなのだ

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(このブログは4月15日に書いていたものです)

 

長女が小学校に入学して一週間、いろいろありました。ありすぎて、これは長女が発達障害ゆえに起きていることなのか、それとも普通こんなものなのか、という判断ができない。卓袱台ひっくり返したい勢いでわからない。

 

一番こたえたのが「集団登校の歩く速度が遅い」こと。

本人一人の問題ではなく、面倒を見てくれている班長さん(めっちゃ面倒見が良い6年生がいてくれたことは運が良かったとしかいいようがない)、一緒に集団登校をする子どもたちの迷惑になっていた。学校に着く時間が遅すぎて、お子さんによっては学校に入った途端走らないと間に合わないという状況になっていたと。

偶然、本当に偶然、幼稚園が一緒だった長女のひとつ上のお子さんとお母さんが同じ集団登校のグループにいらっしゃって、状況を教えてくれた。いろいろ検討して、集合時間を5分早くしてくれた。長女と私はそれより5分早く集合場所に着くよう家を出ている。少し待つ時間が発生するが、集合場所まで長女の足だと5分かかるのだ。集合場所で少し休憩してから歩き出さないと、すぐに疲れて、足取りが余計重くなってしまう。本人も、登校だけはきつい、と話している。

 

・ランドセルの存在(重さよりも大きさかな。バランスつらそう)

・無言でひたすら歩くことが長女にとって楽しくない(→よそ見をする)

この2つが主な原因な気はする。

 

今は、長女の要望で半分ぐらいの距離まで集団登校の後ろに着いて歩いている。すごくきつい。長女の足取りがすごく遅いので、それに合わせて歩くのが大人のわたしでもきつい。

同じ一年生でもさくさく歩いている子もいるので、もう本当に体力とか慣れの問題な気もするけれど、どうなんだろう。

ただ、長女は今精一杯がんばっている。別に怠けているわけではない。でも現状より早く歩くのは難しい。それは長女が悪いわけではない。でもだからといって他の子が悪いわけではないというか、他の子も長女は一年生だからと一緒にゆっくり歩いてくれている。班長さんは後ろを振り向きながら歩いてくれているし、横断歩道は必ず一緒に前に出てくれている(どころか、赤信号でふらつく長女のランドセルまで掴んでくれている)。

感謝はすれど、謝るのはどうかと思い、謝らないではいる。謝ったら長女が悪いことをしているみたいになってしまう。何も悪くないのに。親としてどういう態度で接すればいいのか日々頭を悩ませているけれど、でも、これが当然と思うのはなんか違う。

正直班長さんが一番つらいのではないかと心配している。小学校6年生はまだ子どもだ。もちろん下級生の面倒を見ることも、彼らが成長していくうえで大切なこと。けれど過ぎる負担は良くないと思う。

長女の体力が自然と上がること、そしてランドセルになれるのを、とにかく待つしかない。

 

長女が上級生になったとき、自分が今してもらっていることを下の子たちに返してくれることを願うし、わたしも同じ保護者さんに情報共有してあげられればと思う。

自分たちがもらったものを、もらった人には返せない。ほかの人にあげていくしかできない。そうやって、ひとがやさしくなることを願うしかない。

 

今ここでもらったギフトいつの日か戦火で焼けた地の花になれ